
親からもらう言葉ってプレゼントだよね。
もしかしたら親からすると何気ない一言だったかもしれないけど、子供にとっては大人になっても印象に残ってるものってある。
良い言葉も悪い言葉もあったけど、その中で大人になった今でも私の中で生きている言葉たち。
パソコンでタイピングの練習を
小学校3〜4年の時だったと思う。
西暦でいうと1996年〜1997年くらいかな?
まだパソコンっていうのは一家に一台ではなくて、クラスに1〜2人家にパソコンがあったかなっていう時代。
その代わり画面が白黒で文書作成ができる機能と印刷機能が備わったワープロがポピュラーだった。
もちろんインターネットもまだまだ普及してない頃だったけど、父に
「これからパソコンが必須の時代になるからタイピングの練習をしなさい」
と言われた。
学校から家に帰るとワープロでタイピングの練習を毎日やるようになった。
最初はキーボードにかかれた「あ」とか「く」とかのひらがなを見ながらタッチしていた(ひらがな入力)けど、父に「ローマ字入力の練習にしなさい」と言われて修正された記憶がある。
これが今後物凄く生きていて、こんな事ができるようになった。
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【小学3〜4年でタイピング練習をして良かったこと】
- 小学校5年生にはブラインドタッチは余裕だった
- パソコンや機械への抵抗が無くなり知識量が増えた
- 小学校5年生の時にパソコンの授業が導入されたが、余裕すぎて暇になるくらいだった
- 中学生の時にホームページ制作をするようになった
- ExcelやWordも余裕になってむしろ授業の担当の先生にやり方を教える事もあった
- 高校生の時にパソコン一台でどこでも仕事ができる生活にしたいという夢ができた
- その夢が叶った
- 社会人になった時にパソコンに苦労した事がない
- インターネットが普及した時に即座に慣れる事ができて、情報収集が人よりも得意になった
- 情報収集ができるようになって意識が変わり知識も増えた
- 意識や知識が増えた事で、自分の生きたい生き方を見出す事ができるようになった
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たかだかタイピング練習はタイピングができるようになるだけじゃなかった。
パソコンや機械への抵抗が無くなって、インターネットや携帯やスマホもすんなり扱えるようになって、さらにそれが情報収集に繋がり更には夢まで作れてしまった。
このタイピング練習が無かったら私は今フリーランスになってないといっても過言じゃない。
宿題なんてやってんの?
よく言われた言葉の一つ「宿題なんてやってんの?」です。
その時は「私だってやりたくないけど、そんな事言ったって宿題やらなきゃ怒られるし評価さがるし!!」と言い返していた。
実際問題、宿題はやらなきゃいけなかったからやっていたけど、私がここで学ぶべきだったことは
「宿題の意味」だったと思う。
なぜ宿題があるのか、どういう意図で出されるのか、宿題をやる事でどうなるのか、もっと追求しておけばよかった。
それをふまえて、宿題と自分のやりたい事(将来に繋げるための事、趣味、プライベートも含めて)もっと計画良くできたかもしれない。
今になって、全部完璧にできてるわけではないけどやらねばならない事に対して「なんで○○やってるの?」と追求して明確にするようになった。
テスト勉強をやるなよ
簡単にいうと、
- テスト前になって慌ててバタバタ勉強するな
- 授業中に理解できればテスト勉強で困らない
- 家は勉強するところじゃない
という意味だったよう。
私の父の場合、授業中に授業内容を理解する事で家での勉強を失くしつつテストでは良い点を取っていた。
ものすごく効率が良いし時間の作り方も上手だった。
私は効率や時間の作り方が大の苦手だったから、大人になった今でもこの言葉を思い出して先に先に動く事を心がけてる。
何でだと思う?
小さい頃に「ねえねえ、これってなんでこうなの?」「どうして?」という質問攻めする期間っていうのが誰にでもあると思う。
最初は丁寧に受け答えしてても、段々とウザくなったりして「あーもう!今忙しいの!」ってママに怒られちゃう光景もよく目にしますね笑
私にもそういう質問攻め期間があって、「なんで宿題やってんの?」と内容は被るけど、よく父からは
「何でだと思う?」
って返されていた。
単純だった私は「わかんないー!なんでなんで!」って言っちゃった事も多かったけど、大人になるにつれて「う〜〜〜ん、何でだろう…」と考える事も増えてきた。
答えを求めるのではなく、自分で答えを導き出してみる。
人に質問するのは悪いことじゃないけど、人に答えを求めるのはあまり良くない。
そんな事を教えてくれていたように思う。
大丈夫だよ、やってしまえば
私は根っからのビビリ。
最近だとフリーランスになりたかったのにいざなる時はビビリまくってた。
子供を作る事にもビビってた。
今でも飛行機に乗るのが怖いし、ちょっとでもリスクがあるものに踏み込むのが怖い。
そんな時父から言われたのが、
「大丈夫だよ、やってしまえば」
特に響いたのが子供が欲しいのに、子育てやお金の面で全く自信がなくて中々踏み出せなかった時。
親も孫の誕生を楽しみにしていたはずなのに、何年も待たせてしまった。
でも「子供はできてしまえばどうにかなるもんだよ」って言葉をかけてもらって安心した。
いざそうなると失敗する事も沢山あるかもしれないけど、どうにかなるもんだ、やってしまえば。
自分の人生だから自分で決めたらええよ
世のお父さん方はこの言葉を言う人は多いかもしれない。
「自分の人生だから自分で決めたらいいよ」
私の父も同じようにそう言ってくれた。
高校からの進学の話が出て来る時期、母は「とにかくどこでもいいから大学に行きなさい」と言われた。
でも私はWebデザイナーになると決めていて、早く社会人になって早く技術を身に着けたかったから4年間も大学行くのがもったいないと思ってWeb関係の専門学校に行きたいと言っていた。
そこで母と大ゲンカ。
母の気持ちももちろん分かるし、母も私の気持ちは分かっていたと思う。
でも、母は私のために、私は自分の将来のためにお互いに必死だった。
そこで遠くから見ていた父が登場して「自分の人生だから自分で決めたらええよ」と言ってくれた。
それに母も響いたようで、私の“ワガママ”が通ってWeb系の専門学校にいって無事にWebデザイナーになって、独立もした。
今では母も喜んでいる。
これは何歳になってもそう。
でも自分の事のはずなのに、他人に判断を委ねてしまう事って多い。
「友達に誘われたから入りました。」
「親に言われたからこの大学にしました。」
「バイト先の店長に辞めるなと言われて辞めれません。」
こんな言葉を耳にする度にモヤモヤする。
自分の事なのに自分で決めてないの?って。
自分で決めると責任も自分にある。
これはもしかしたら誰しも嫌がるのかもしれない。
だって、人に決めてもらったほうが楽だもの。
人はみんな楽な方を選ぶってヒロキも言っていた。
その「責任」って実はとっても楽しい事だったりする。
自分の人生を自由に決めれる。
とても幸せな事なんだと思う。
良い事があっても悪い事があっても全部自分の歴史になって人生を刻んでいく。
その方が実は楽でもあるし、「生きてる」って実感が何より強い。
今も父の言葉は一生もののプレゼント。大事にしていきたい。